日本人は指輪をいつからつけていた?明治の茨城県の方言 風俗画報 第三百九十四號
明治四十二年3月5日発行 1909年に発行された風俗画報 第三百九十四號です。この雑誌は日本全国の風俗(風習や文化)を中心に紹介している雑誌で若干ですが外国にも目を向けている点も特徴と言えます。
<目次>
明治時代の人たちが考える。指輪はいつからつけていたのか?明治の指輪事情
豊臣時代というのがこの渡邊天香氏の考え。ポルトガルとの貿易により指輪が持ち込まれて様々な人が身に着けたと考察。明治7年ごろまでは弓矢で景品を落とす揚弓店の矢取り女や麥湯女(温泉宿や湯屋で接客する女の人)が青金または銀に金メッキの指輪に家紋などを彫刻したのをはめていた。
そして、明治10年になると上野公園の内国勧業博覧会が開催されて西洋風を崇拝する男女が増加したことで指輪が流行し。明治20年になるとルビー、オーバルなどの宝石入りが流行った。この本が発行された明治四十二年ではダイヤモンド入りか美術彫刻を穂と越したものではなくては流行のものとは言えない状況となった。
約100年前の話ですが、当時から男性は女性に「指輪はダイヤモンド入りがほしい。」とか言われていそうですね。この時代に指輪文化が廃れていたら何が流行っていたのか。それにしても明治12年からダイヤモンドを販売し、現存している銀座の「天賞堂」はすごい。
この指輪の話に関連して、「信長は非常に西洋のことを嫌い、一時は貿易をなさなかったくらいだが」と書かれていたのが驚き。現代では信長のことを西洋物かぶれなかと思っている人が多いはずですが、明治の人はこうは考えていなかった可能性があり興味深いですね。
端西(スキツツル)とはどこの国?
正解はスイスのこと。時計の話なのでうすうすは感じていましたがスキツツルで検索しても出てこないのでなんの国かと困惑しかけました。
明治の茨城県の方言
私は出身が残念ながら茨木県ではないので現存している言葉があるかはわかりませんが、竹馬や虫の名前、農具の名前などを見ると当時は地域ごとの社会だったので名称の統一がなされていなかったように考えられそうです。
徳之島の風俗、女性の入れ墨文化について
「女は手の首及び手の甲に色々の入れ墨している」と書かれています。この件が気になって調べると、徳之島アートプロジェクト実行委員会のページにありました。実際に写真を撮影し年齢などを記録した本があったようで、年配の方は知っていたとのことです。
どうして女性だけ入れ墨を入れていたのか、なぜこのような模様なのか?など不思議は今もありますね。
文中に「常楽の国土であり、人生のたびにつかれて、三毒のちにさまよう人は、よろしく船に乗って南東に去るべしだ。」とあり、明治時代の人も今のサラリーマンも大変なのはお互い様だと身近に感じられました。
写真、挿絵、広告